向こう水博士

向こう水博士は、世の中のあらゆるテーマに対し率直に素直で真摯な意見を考える、いわば人生を好転させる福の神のような存在です。宜しくお願いします。

五島列島での幼少時代 その2

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私の小さいころ私は、五島列島の自然の中で育った。五島列島の自然は私たちには、雄大で色々なものを与えてくれていた。

 

私たちは、大抵、4、5人の仲間で遊ぶようになっていた。ある日、小学校の裏山にあるダムの先へと進む道を皆んなで行ってみようという話が持ち上がっていた。

 

ダムの裏山の道は、かなり広く入り組んでおり、私たちにとってかなり興味を引かれる面白そうな道だった。

 

 

 

私たちは、休みの日に集まりいつもの自転車に乗り、その道を登り始めた。登り始めて、しばらくするとダムの形跡が見えてきた。一気にテンションが上がる。「ダムがあるぞー!!」私たちは、「わーっ」と走って一気にダムまでたどり着いて、近くの地域に水を供給しているダムに目をやった。緑の自然の中にダムがあり良い眺めである。

 

 

その後、山の頂上までやっとの思いで到達する。山の頂上まで行くと、もう私たちの他には気配がなかった。コンクリートの建物が金網に守られて立っている。それは、まるで何かの要塞のように私たちには感じられた。金網をよじ登って入ってみる。しかし、鍵がかかっていて開かない。

 

もっと奥に進むと、全く見たこともない風景ばかりが続き、いつも見てる反対側の海が見えた。そこまで進むと少し怖さが出てきて私たちは引き帰した。

 

 

 

 

下の私の家のあたりまで戻り着くと、クラスの女子たちが遊びに来ており。川に誘って、ドンポという川魚釣りをして遊んだ。私たちの島での遊びは目の前にあるもの全てが遊びに直結していた。しかも、自然と戯れる形で。とても、楽しい島遊びであった。

 

島はいつも私たちに色々なものを見せてくれ、教えてくれ、育んでくれていた。

父の車に乗って

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私は、小さい頃「後ろに乗りなさい」と言う母の声を後ろに「お父さん、お父さんの運転を見たいから助手席に乗っけて」と父に言っては、父の助手席をいつもゲットしていた。

 

父の安心できる車の運転に乗りながら、街の看板や、標識の文字を読むのが好きだった。そして、父に最近覚えたてのローマ字の看板の文字を読み、確認してもらうのが、その当時のお気に入りだった。

 

 

 

父の言う通り、アリババの本の話をローマ字で書き移す作業を毎日していたことで、私はローマ字を読めるようになっていたのだ。

 

私の父は、昔はトラックの運転手をしていたらしい。なので、車の運転はお手の物である。どんな乗り物より快適で、ブレーキを踏んで停まるまでに、いつ停まったか分からないくらいだったのを覚えている。

 

 

 

それから、時は経ち、父の車に乗ることも少なくなってきた。大人になり一緒に外に出ることもなくなったからである。

 

親は、前まではファミリーカーに乗っていたが、そのファミリーカーを父があまり運転したのを見た記憶がない。主に母が、ジイちゃんやバアちゃんを乗せてどこかに行ったり、私をたまに乗せたりした。

 

 

父は、その頃、スポーツカーを一台所有していて、退職後の娯楽だと言っては乗り回していた。そして、まだ母も乗ったことのないスポーツカーに父は私を乗せるから、ドライブに行こうと誘った。

 

乗ると、普通の車と違って見る世界が違う、車高がまず低いのだ。そして、キーを回すとドルルルルルンと低い音が、キュキュキュキュッとチョロキュウのような動きで車が動きだす。物凄い、回転と音と圧力である。

 

 

父はというと、黒のドライビンググローブをはめ、サングラスをかけ、もうその気だ。

キュキュキュキュぎゃぎゃぎゃブオーーーンもの凄い爆音とともに、車は走り続ける。

大人になって乗ってるので、手加減はない。降りた後にはクタクタに疲れるくらいの運転だ。怖いくらいの速度ではあったが、幼い頃からの安心感で父の運転だしというのはどこかにあった。

 

 

 

大人になっても、父の車に乗り、父と共に水平線を走る。あのスポーツカーでの運転が父との最後のドライブであった。今は、私がチビたちを安全運転の中、色々な街へと連れて運転をする。チビたちは、パパの安全な心地よいブレーキの車に乗って。

PPAP

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今、巷で世界を騒がせているPPAP、皆さんご存知でしょうか。彼のYoutube爆発的ヒットはどこにあるのだろうか。最初はジャスティン・ビーバーが面白い日本人の動画があるという投稿からがことの始まりみたいだ。

 

今は世界で一番短い曲の中で、一番ヒットしているということでギネスの記録を更新した。なんと素晴らしいことだろう。

 

ピコ太郎の楽曲を提供している本人は、ミュージックステーションの名司会者タモリさんのボキャブラ時代の知り合いであるらしい。これも面白い話である10数年ぶりかの話だそうだ。

 

 

 

なぜ、ここまでPPAPがヒットしたのだろう。少し研究してみよう。

 

・音韻論音声学的視点

 まず、PPAPは、音韻的には文句なく、心地よい韻を持っている。

「P」という口唇破裂音の連続は、ヨーロッパ諸語であると特に顕著に、子どももおとなも大好きな響きだ。「ピーターパン」や「パイドパイパー」などのキャラは、Pの連続を意図的につくることで、響きをよくしている。

Peter Piper picked a peck of pickled peppers.

という有名なマザーグースの早口言葉があるけれど、この早口言葉は「言いにくい」のではなく「口にして心地よい」という意味の早口言葉の代表格。

 呪文などにも、たとえば「アブラカタブラ」など、口唇破裂音「B」がいいリズムで繰り返されるものが多い。

 これ以上例を並べなくても、「pen pinapple apple pen」が迷うことなく「復唱して楽しい音だ」と世界で幅広く受け入れられることについては、体感的に反論は少ないのではないかと思う。「つい口に出したくなるもの」が流行るのは、特殊な事例ではなく、むしろ普遍的な現象だろう。

 

 

・言語教育的視点

 実は世界の大多数をしめる非英語圏の人間にとって「英語の勉強の基礎」は誰でも通過しているものだ。今も、たぶん世界中の教室で、英語の苦手な子どもたち(や、あとからの支援で教育を受ける大人たち)が「This is a pen. I have a pen.」「This is an apple. I have an apple.」みたいなものを暗唱している。

 その後、英語が得意になった人も苦手のままの人もいるけれど、みんな、「あのフレーズ、その後の人生でほとんどつかわなかったな、意味あったんかな」と思ってたりする。いや、もちろん文法を学ぶだめに仕方ない過程というのはわかっているけれど。

 そして、ピコ太郎さんは見た感じ典型的に「英語が苦手なアジアの変なおじさん」だけれど、それでも昔習ったであろう(あるいは習いたての)自分の知っている数少ない英語のフレーズで、強い気持ちで世界に対峙している。きらきらの安っぽい服で「英語ができるシンガー」という自分に酔いつつ、Youtubeでスター気取りだ(というよくできたキャラだ)。

「英語が苦手そう」なのをものともしない前向きなキャラクターは、不快感が薄い。単に下手な英語で歌うだけの人だったら、おそらく差別的に見えたり、非英語圏の世界の人を馬鹿にした表現ととらえられる可能性も高かったけれど、力強いポジティブさと当事者性、そしてアジアによくいそうなおっさん、というリアリティでうまくクリアしている。もちろん言い過ぎだけれど、英語が苦手な人にとってはヒロイックでさえある。(これは、いくつかの工夫と、それを超える数の偶然が重なった結果だとは思う)

 また「This is a apple. I have a apple.」や「This is pineapple. I have pineapple.」という、随所にある冠詞の文法的逸脱も「初学者あるある」「英語しゃべれない国からきた人の英語あるある」だったりするので、ピコ太郎さんのキャラクターが世界中に伝わる表現になっている。

 

 

・文法的視点

 不思議の国のアリスなどがよく知られていてわかりやすいけれど、文学や論理学、数学などの教育的読み物にはよく「われわれの日常的な論理から逸脱しているナンセンス世界の住人」というキャラが出てくる。そういう人物は、われわれの常識にかたまった日常を見直して「なぜこんな常識があるのか」と考え直させることで知的刺激を与える、大きな意味がある。

 実は、ピコ太郎さんもそういう世界の住人である。

 自然言語の文法というのは「見たまま」を表現した順番にはならない。僕たちはこんなことを日頃、当たり前すぎて考えもしない。

 たとえばここにウナギイヌがいたとする。ウナギイヌは頭を東に向けている。これが、歩いてくるっと回って、西向きになったからといって「あ、イヌウナギだ!」とはならない。よく考えると、不思議なことじゃない?

 この手の人間の音声言語の持つ不思議さを、言葉遊びやなぞなぞにつかう例は、世界中にある。

 ペンとアップルを足すと(「Ahn!」)「アップルペン」ここまではいい。

 ペンとパイナップルを足すと(「Ahn!」)「パイナップルペン」これもよしとしよう。

 ただ、これを両手で持ってくっつけた(「Ahn!」)ところで、左から順に読んで「ペン・パイナップル・アップル・ペン」にはならない。文法的習慣でいうならこの物体は「アップル・パイナップル・ペン」であるはずだ。少なくとも僕の通常の言語感覚では。なぜだかはわからないけれど、それが人間のつかう言葉のルールなのだ。(こういう不思議さに敏感に気づき、謎解きにいどむのが、言語学という学問の魅力である)

 ピコ太郎さんは、そのルールを飛び越えた。「ただの英語が苦手な人」というものではない、ふしぎの国のアリス的ナンセンス世界の住人であることが、最後に明らかになる動画なのだ。

 その、実は知的な刺激のある洒脱なナンセンスさが、世界に伝わっていると思う。「Ahn!」というセクシーな呪文とともに。

・結び

 「これだからおもしろい」という説明は、本来はただの「野暮」だ。
 なぜ流行ったのかといえば、もちろん「努力と才能と経験に裏打ちされた運」という、例の、作り手すべてがそれに飢えているやつだ。僕だって作り手側の人間である以上、分析なんてひけらかしたところでこれまでの無能をたださらすだけだ。
 でも、一方でPPAPに関しては、日本の文化の外で流行しているという現実があって、「小島よしおやら永野やら、キャラ芸人やギャグは日本にはたくさんあるのに、なぜPPAPだけこんなに世界で受けてるの?」という違いに気づかない人、違いを見ようともしない人もいるだろう。地球のスケールで届く普遍性について、という少々の大風呂敷を広げてよければ、「これだからおもしろい」という醜い論にも多少の意義はあるんじゃないだろうか。なにせこれは(真偽は不明だが)、あの宮台先生の投げたボールなのだしね。

 

というとこである。

 

 

 

PPAP、今世界で話題のYoutubeモンスター今後一層の広まりと、これからにも期待をしながら彼を見続けたいものである。

五島列島での幼少時代 その1

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私は、小学二年生の夏休みに神奈川県から、長崎県五島列島に引越しをした。

私の記憶が確かなら、親は、神奈川から長崎の五島列島までの道のりを車で二人交代で運転したはずだ。

 

一度、大阪で親戚のおばちゃん家に泊まり、五島列島まで二日がかりで行った記憶がある。

  

五島列島にフェリーで着いてすぐ、私は引越し先に着いたのだが、いかんせん子供は邪魔である。早速、近くの家に預けられ、そこの子供たちと仲良くなり、ゲームをしたり、走り回ったりしていた。

 

 

その後、島を回ってみて、子供ながらに気付いた事だが、島には、モールや大きなデパート、電車のホームなどはなく、しかし、そこには子供が育つには十分な大地と山に海に川などの自然があった。

 

 

私は、夏休みの宿題、やってなかった夏休みの友を引越しで見つからなかったことにし、先生に見つかったら持ってきてねと言われ、見つかるはずなどないと思いながら、教室に入りクラスの皆んなに紹介された。

 

 

五島列島の友達の皆んなはとてもフレンドリーで、神奈川から来た私がとても珍しいようだった。帰る頃には、なかなかいっぱいの友達ができて、初日からとても楽しい小学校ライフを送った。

 

 

 

その後、3年の月日が経ち、私も五島列島での生活に慣れ、今では親友とも言える悪童友達もいた。ある日の事、日曜日に朝寝しているとその友達の1人から電話がかかってきて滝を見に行かないか、カップラーメンは持ってるかと連絡が入った。滝を見に行きたい、カップラーメンは家にある。早速、自転車に跨がり彼らの後についていく。

 

 

滝までは、およそ3キロくらいの道のりである。午前中に家を出て険しい坂の道を自転車を降りて歩いたり、乗ったりして進んでいった。むき出しの山がそこにはあった。私たち5人組は声を掛け合いながら、ひふみよ滝への道のりを一時間ほどかけて登った。

 

登りきったところで、はらが減ったから飯を食おうという事になった。もちろんカップラーメンである。お湯は水筒に持ってきてある。さあ、食べよう。ラーメンも出来上がった頃に私は一つのことに気づいた。

 

箸がない…するとそれを見ていた我らの悪童の中のボス的な友達が近づいてきて、「なんや、箸持ってこんかったとか」と言って自分が使おうとしていた、片方の割り箸を半分にして、私に渡した。そして、自分もその半分を半分に割り食べ始めたのだ。

 

 

面白い機転と優しさに、こいつこんなとこあるんやなあなどと思いながら、五島列島の島の綺麗さを満喫しつつ、私たちの五島列島の生活は続く。

 

 

 

to be continued…

IQOSを使って一ヶ月 どう変化しただろうか

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私がIQOSを使い始めてから、約1ヶ月が経つ。最初にIQOSを吸った感想はクリーンな感じがして美味しいというものだった。3日経つとせっかくIQOSを吸い始めたにも関わらず、タバコが懐かしくなり吸いたくなった。

 

 

 

試しに3日ぶりのタバコを吸ってみる…「う、うえ、なんだこりゃ」タールのタルタルな独特の味とニコチンの有害な何かを深くか感じられて美味しくない、楽しめない。

よくこんなものを吸っていたなあなどと思う。

 

その後、IQOSを吸ってみると今度はタバコよりはなんだか物足りない。「あれっ、もしかすると、今、俺やめられる?」そんなこんな思って吸わないでいると、禁煙の離脱症状が出てきた、タバコは、IQOSを吸って吸わなかったためか受け付けなくなっている。

  

 

IQOSを吸うと、自然でクリーンな味を体感でき、しかもタールはなし、ニコチンも9割カット、ヒートした独特の味わい深い燻したタバコを吸うことができ、タバコよりも健康に良いときている。これは、IQOSの虜になるなあと思った。

 

その後も、IQOSを愛用している。今、現在では、まだ生産が追いつかずなかなか手に入りづらいIQOSに一種の優越感を感じながら、また美味しさを噛み締める。

 

 

 

今回、職場の仲間内3人で皆んなで禁煙をしようという機会があった。私は、何故だか自信があった。かれこれ一ヶ月タバコより離れているし、吸っているのはIQOS、ニコチンやタールもそこまで含有されていない。「これはいける!!」と思って取り掛かった。

 

 

7時間くらいは普通に、我慢できていたのだが、いかんせんIQOSに変えてからというもの食べ物が美味しい、しかもIQOSまで吸わないのだから、食べ物にはしってしまった。これは、違う意味でヤバイと思い。今回は断念した。しかし、タバコをやめてからIQOSまでやめるとなると、ご飯がこんなに美味しく感じるものなのか。

 

残念ながらIQOSをやめるまではいかなかったが、IQOSを吸うことにより体の中の何かに変化が起き始めているのは確かである。このIQOS習慣続けて、これからも身体の健康に気を配りたい。

家出先は、ハウステンボスのカウントダウンparty パート3

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朝、気の良さそうなアメリカ人海兵に起こされ私は起きた。「俺はベースに戻るけど一緒に来るか」という。言われるがままに、ベースへの道を2人で歩いた。彼の名前を忘れてしまったが、軍を辞めたら絵描きになりたいということを話したり、もっと私の英語が上手ならあなたと話がいっぱいできたのになどという話をした。

  

 

 

ベースのゲートで彼が証明書を見せ手招きする。シャワーに入ってくるからと言い、こちら俺の上官と紹介してくれた。昨日のことを引きずって、私も浮かない顔をしていたのであろう。「どうした?」と上官。

 

 

理由も上手く説明できないままいると、上官は先ほどの彼を指差しながら、「あいつは気のいいやつだ、だからここには向かない、ほら」とシャワーを浴びた後にビールを飲み、ゲームをしている彼を見ている。「人生は一度きりだ楽しみな」と言って上官はいなくなった。

 

 

 

その後、彼と話をしながらベース内のゲームセンターで遊び、佐世保の街へとマリアに会いに行った。彼女は会うなり私に「親が心配しているから家に帰りなさい」と言う私は、昨夜のうちに罪悪感のために親に電話をしたのだが、父が電話にでて自分で家を出たのだから家には帰ってくるなと言っていたことを思い出した。

 

マリアにもう一晩だけとお願いするが彼女は、許してくれず2人に連れられて駅まで来た。さよならを告げて電車に乗るが、帰りのことはよく覚えていない。

 

家に帰り、激怒している父が棒で私の背中を100発近く殴打したのは記憶にあるが、その時私の頭の中には、ジルの姿が頭に残っていて痛みなど感じもしなかった。自分の部屋の中に戻り、大泣きした私は、母に物凄く心配されたが、親を裏切ってまですることにいいことなどないのだなと気付いたのはここ最近のことだった。

 

 

 

淡い記憶とともに私が大きく父を裏切ったのは、これが初めてだったかもしれない。

これらの記憶も今は、懐かしい思い出である。

 

中総体 minutes単位の桜木花道

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中学校時代、私はバスケ部に所属していた。私たちの部活は先輩からの風当たりも強く、先生のコーチングも厳しかった。そういうこともあって、最初いた30人近くの部員も何人もの部員が辞めていく中、私たちの学年7・8人は残った。私には、あまりバスケットの技術が身につかなかった。

 

 

何故そうだったかというと、部活がキツかったせいもあり、よくサボっていたからである。しかし、足だけは早く、バスケ部は元より陸上部と対等に走り得る脚力を持っていた。

 

技術がない分走って走って、相手のミスを誘い、こぼれ玉を広い、シュートに繋げる展開だ。あっという間の3年間の汗にまみれた部活活動が過ぎ、中総体が近づいてきた。我々は、思い思いのポイントを強化し、試合に挑む。

 

 

 

あたるチームは全部で二つ、漁師町の魚中と選抜的な中学、上中である。魚中の試合は選抜メンバーで行われたので、ずっとベンチを温めていた。

 

次に、上中試合、後半になりコーチが私にアップをさせ始めた。点数は一桁が少し負けている程度だ。コートの中に入る。すると、攻めていた味方がいきなりボールを取られ、味方コートには自分だけ、ボールを持った敵が攻めてきた。

 

しかし、この早い動きの中で相手のつくドリブルのタイミングが良く見える。タンタンタンこれは意外にタイミングさえ合えばスティールできるかもしれない。スティールは自分の得意技だ。タイミングを計り抜き際にサッとスティール成功。

 

 

今度は、自分たちの速攻の番に変わった。観衆がどよめきキャーキャー言っている。私は、スリーポイントラインの所までダッーとドライブして行って、キュッっと止まり一度フェイクを入れて1人敵を交わし、スリーポイントシュートを放った。ボールは弧を描き、ゴールの角にあたり惜しくも外れた。「ああっ!」と観衆

 

すると、また相手側の反撃が始まる。ゾーンディフェンスだ。ゾーンを組んで、敵に備える。大柄な相手チームのセンターが端にボールを回そうとしていた。相手は大柄な選手が多く、リアクションが大きい、カットに入る。

 

 

ナイスカット成功観衆のまたもやキャーキャーという声その声をせに先ほどと同じコースで同じ攻撃を仕掛けるスリーポイントラインに立ち、ワンフェイク入れて敵を交わしてという時に、うちのキャプテンがゴールしたまで来て手を挙げているのが見えた。パスをだす。しかし決まらない、キャプテンも長い試合で疲れている。

 

 

私は、ここで下げられ中総体は終了したのだが、控え室に戻ると、「さっきの選手は高校に行ってもバスケするのか?」とか「何て名前だ」なんてminutes単位の桜木花道は有名な一発屋に成り上がっていた。

 

私は、満面の笑顔で中総体を迎えられ楽しい思い出として誇らしく思っている。バスケ初心者の私があそこまで観衆を沸かすことができた、脚光を浴びた瞬間の感じを忘れることはできない。楽しい3年間のバスケ生活として残った記憶である。