向こう水博士

向こう水博士は、世の中のあらゆるテーマに対し率直に素直で真摯な意見を考える、いわば人生を好転させる福の神のような存在です。宜しくお願いします。

髪の毛の長さが何センチからなら、パーマはかけられるのか

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私の坊主頭から約2センチほど髪が伸び、私にはどうしてもどうしてもしたくてしたくて堪らないことがあった。それは、パーマをかけること。そう、この2センチちょっとの髪にパーマをかけたいのだ。

 

なぜかというと、横は短く刈りんで後ろは刈り上げでいい感じになってるのだが、上の髪だけが中途半端に前に伸びておもしろくない。私は、この髪を上に向けて立たせて、ソフトリーゼント風にさせたいと思っていたのだ。

 

 

 

それで、婚約者にいい理容室を聞いた私は、アイパーをかけてもらうべく電話をしてみたのだが、できるにはできるが今はお客様が立て込んでいてちょっと難しいということで、その場は諦めた。

 

暫くの間は、毎日の業務や育児などでそのことも頭から離れていたのだが、ある日外出した日に婚約者と2人、パン屋さんでパンを選んでいた時にそのことは再燃した。

 

婚約者に「今の髪の長さでパーマをかけたら、どうなるかなあ」と尋ねると、「パンチパーマみたいになるんじゃない」と婚約者。尋ねてみるだけ訪ねてみようと、この前の理容室に電話をかけてみると、今の長さでアイロンパーマをかけると、パンチパーマか長くても「浜の大魔神」みたいになりますよ。と忠告された。

 

 

それでは、困ると、諦めてその日は休日を楽しんだのだが、なかなか私のパーマ熱は収まりきらない。

 

また、違う日に1人でモールに行き、ウロウロと時間を潰そうかとしている時に美容室の前を通りかけ、ふと美容室ではどうだろうとショップの店員さんに相談をしてみる。

 

 

すると、普通のカールを巻くと今の髪に長さは2センチくらいしかないので、パンチパーマみたいになってしまいますが、ピンでかけるピンパーマならできるかと思います。と言うではないか。雑誌のソフトリーゼントも見せてくれた。

 

これだ!これをしてもらおう。値段は理容室の約2倍はかかるが、髪の毛には変えられないと思い。早速、30分後に無理言って予約を入れてもらう。

 

 

パーマなので時間がかかりそうだ、と思った私は入念に御手洗を済ませ美容室に向かう。初めは、髪を綺麗に流してもらいカット、以前は当たり前のように通っていた美容室だが、もろもろにかかる経費のため、最近では、お手軽に済ませられる千円カットで済ませていた。

 

久々の美容室である。なぜか緊張してきた…さっきトイレには行ったばかりなのに、トイレに行きたくなってくる。我慢してもしょうがないので、トイレに行かせてもらう。店員さんに「申し訳ないです。」と言ってトイレに行く。

 

出ると、カットをしてくれる店員さんは待っていてくれるわけだが、それがまた申し訳ない。

 

 

気を取り直して、カットは芸術のようにサッサッサッと終わり、パーマの用意が始まる。巻き始めると長くかかるのかなあなどと考えていると、髪の毛が短くかけにくいのであろう、巻くのに少し手間取っている。それを見て、また緊張する。

 

なぜこんなに緊張するのかは分からないが、待ちに待ったので期待が高いのだろう。またもや、尿意を催しトイレを拝借する。さすがに、周りの店員さんもどうしたのだろうという顔をしている。

 

 

とりあえず、私のお腹も無事収まった頃にパーマも無事かかった。ピンパーマは三回位のパーマ液をかけ、そのまま放置する。約1時間40分の行程だ。

 

かけ終わったパーマを見て、私は大満足だった。仕上げに洗って頂いて、髪をセットしてもらう。立派なソフトリーゼントが出来上がった。

 

 

私は、美容室の技術に関心しながら、度々に渡る私のトイレにも嫌な顔もせず付き合って頂いたスタッフさんに感謝して、ニコニコ笑顔で美容室を後にした。

 

このソフトリーゼントのパーマ受けも良く、ピンパーマなので妙にチリチリもしてなく、外国人の無造作な髪の毛みたいでかなり良い。

 

 

皆さんもパーマをかけたいと思った時は、一度、美容室の店員さんや理容室の店員さんに尋ねて見て下さい。私のように髪の毛2センチでもかけられるくらい、今のパーマは進歩してますから、きっとあなたにあった施術があるはずです。

 

 

以上、髪の毛の長さは何センチから、パーマはかけられるのかでした。

 

私が育った島、五島列島を去る時、島の友達は…

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私は、中3の夏休み小学校2年生時から私を育んでくれた五島列島を親の転勤で去らなければならなくなった。学校の担任の先生は、私の送別会も兼ねて夏休みの間にキャンプをクラスの皆んなですることを企画してくれた。

 

皆が、朝から集まり。私が中1の時より好きなあの娘も来ていた。軽くジョーダンを彼女にかけながらフザけて集合場所まで行く。

 

午前中は、レクリエーションや何やらをして過ごし、昼ごはんは親たちからの差し入れが届いた。

 

昼からは、キャンプ場の隣にある、蛤浜での海水泳主の自由行動だ。私は、結局、小2から中3まで五島列島に住んでいて、まともに泳ぐことができなかった。というのも、小3の夏休み、母と来ていたここ蛤浜で沖にいたフェリーの進む高波にさらわれて溺れたのをきっかけに水が怖くなったのである。

 

 

それでも、海に入るのは好きなので、足のつく範囲で海を楽しみ日中を過ごした。

 

 

 

夜になり、皆で取り掛かったカレーを食べ終えると、キャンプファイアーを囲んでの余興などがあり、そして、夏の夜の一大イベント肝試し大会となった。

 

ただ、これには条件があり、中学生なので夏の終わりに好きな人がいれば指名してその娘と行けるというものであった。

 

先生が、「誰か指名はいるか」と言う。しかし、皆んな恥ずかしがって誰1人手も上げない。私は最後だから、中1の時から好きなあの娘を指名しようかと本気で考えた。考えて、考えて、考えている内に、「いないのか、締め切るぞ」と終了してしまった。

 

 

お決まりのように、山にの登る前にたっぷり山や海、このキャンプ場にまつわる怖い話を聞かされて、怯えさせられた私たちはくじ引きでペアーが決められ、肝試しに行くことになった。

 

私の相手は、親同士が仲良く行き来のある女の娘とになった。皆んな、それぞれのペアーで山への階段を登っていく。私も順番になり懐中電灯を持ち、ペアーの彼女と行く。途中、暗く、彼女が暗くて怖いというので、懐中電灯を彼女に渡し登る。

 

頂上付近になると、ギャーとかワーとかいう叫び声が聞こえ目をやると、先に隠れていた先生たちが登ってくる生徒たちを脅かしていた。それを見ていた私たちペアーは、脅かす方よりドキドキしながら近づいていき、先生の側に来たところで逆に脅かしてみた。「おおっ、気づいてたのか、びっくりしたな」と先生たちは言い。私たちの肝試しは終わった。

 

その後も、皆んなで夜更かしして、あれやらこれやらで盛り上がり、深夜に就寝した。

 

翌日は、私の引っ越しの日である。その時間のだいぶ前には、昨日キャンプに来ていたクラスの生徒たちは元より、小学校からの友達、部活から急いで自転車で駆けつけてくれた友達、約80人ほどが集まってくれ親の運転する車で去って行く私に「また来いよ」「じゃあなー」「頑張れよー」などといろいろな声を大声で掛けてくれた。

 

私は、親友ママさんの途中まで運転する車から、降り皆んなに向かって一礼し、大きな声で「ありがとうございましたー。お世話になりましたー」と言って挨拶をした。すると皆んな「おおー」と言って答えてくれ、いつまでも大声で見送ってくれる友達が見えなくなるまで私は手を振り続け大好きな友人たちとの別れを惜しんだ。

 

夏の暑い日のことだった。

今、この秋を肌で感じ、秋を感じる思いとは

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今年は、つい先日まで暑く汗ばむ気候が続いていたかと思いきや、急に朝が冷え、昼はまだ暖かいが少しカラッとした気候に変わってきた。

 

秋の紅葉はまだかまだか、と待ち望んでいたら、つい最近公園に散歩がてら訪れたところ、葉が綺麗に紅葉していて、それは見事なものだった。

 

 

 

今では、朝から昼までも少し肌寒いが、まだ、暖房やコタツに入るまではない。しかし、夜が寒く寝冷えしてしまいそうになったりと、難しいこの秋である。

 

 

今回の秋、変わりやすい天気というのもあって、体調を崩す人が多いらしい。私の周りでも、結構いるみたいだし、知り合いや婚約者の周りにも多いらしいのである。

 

私は、この秋に楽しみにしている事がある。というのは、ここから二時間くらいかけて行ったところにある。垂水の千本イチョウというスポットだ。

 

例年、この時期になると紅葉したイチョウが見事な色に染まり、土の上をイチョウの絨毯で敷き詰めて幻想的な世界観を見せてくれる。

 

 

去年は、不作だったらしく、せっかく二時間かけて訪れたにもかかわらず、イチョウはまだ色付いておらず、イチョウの絨毯もまばらだった。

 

 

今年は、どのような秋模様を見せてくれるのであろうか、あと数日が楽しみである。

 

秋の紅葉、ひとつの楽しみだ。この秋も紅葉を見て帰りに美味しいサンマでも買ってウチでビールと共に食したいものである。

 

さてさて、この良い季節、秋をどう堪能しようか。

ここ鹿児島に来てはや13年、振り返って感じる鹿児島

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鹿児島に来て、はや13年が過ぎようとしている。鹿児島は父、母の生まれ育った土地だ。私は、神奈川県に生まれ、長崎に育ったのだが私が25歳の時、働いていた介護職が、まだパートだったのと、父の身体のこともあり、一緒に鹿児島に越してきた。

 

始めの頃、私には鹿児島に誰も知り合いがいなく、寂しい思いをしたが、なんとかふっ切り、前の仕事などで稼いでいたお金で鹿児島を知るために街に繰り出したりした。

 

長崎に比べると鹿児島は天文館と言われる街が大きく、道を歩いている女の子たちもオシャレで綺麗に感じた。

 

 

 

私は、鹿児島で有名なラーメン屋さんでのバイトの仕事を見つけ、引っ越してきて程なく縁があった、化粧品店の店長の彼女ができたりしてすぐに馴染み始めてきた。

 

しばらくして、体調を崩した私はこれから何度も入退院を繰り返したりするのだが、その度にこの鹿児島という大地に抱かれて元気になって、幾度となく蘇った。

 

ある時は、市内であったり、ある時は鹿屋の地であったり、志布志という土地であったり、私は、色々な鹿児島を見てきた。

 

 

 

それを、経て思うこと、鹿児島の人は熱い。人情味に溢れている。そして、いい意味で田舎者である。いい意味で田舎者と言うのは弊害かもしれないが、皆んな暖かいし、人を大切にし、大地と共に生きているという意味だ。

 

鹿児島市内にいても近所のおじさん達は、今や家族連れとなった私たちのことを気にしてくれ、取れた農作物のおすそ分けををしてくれたり、田舎で暮らしていた時は、田舎で助け合いで先輩友達が親のように可愛がってくれたりと人間がいいのだ。

 

長崎から来た時は、一見取っつきにくく、威張った感じのする鹿児島男児に嫌な気もしていたが、今はその不器用さに愛着すら湧く。女性は男性を上手く立てて、外に送り出してくれる鹿児島おごじょに関心すらする。

 

 

そして、鹿児島といえば桜島を始めとする大自然だ。私はオーストラリアに海外研修に行った経験があるのだが、鹿児島を海外に例えるならそれだろう。

 

鹿児島市内、桜島、霧島、指宿、坂本、奄美、与論、様々な観光スポットがあり、鹿児島観光をするだけでも楽しめる。

 

 

私もここ最近、近場の姶良や加治木に始まり、様々なところに観光しているが、道中や

行った先が自然と一体化していて楽しめるのがいいところである。

 

この地、鹿児島に来て特産の焼酎を楽しみ始めたのも言うまでもない。

 

ここ鹿児島に来てはや13年、仕事が休みの日などには鹿児島の色々な土地を旅して回るのが今の私の楽しみである。もっともっと鹿児島を旅して回り、鹿児島をもっとよく知りたい。

 

今や鹿児島の虜である。

 

 

最近の身体事情

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私の体重は、30代の前半はかなり良い数値だったのだが、30代の後半になってきてからというもの、私の体型と共に一気に崩れ始めた。一つは、仕事でそこまで動かなくなったからと、お酒を習慣的に飲み、美味しいおつまみを食べ始めたことである。

 

 

この二つは、私にはなかなか大きかった、おつまみをやめて飲むだけで何キロかは体重は減ったが、やはり体重は口から入れたものであるのは間違いない。そして、ストレッチや筋トレ、とにかく動く事を心がけた。私の筋肉量は今、58パーセントある。人と比べた事がないので良くわからないが、多分少し多い方かと思っている。

 

ということはである。基礎代謝がいいということになるので、食べる量さえ気を配れば、普通に減っていくという計算になる。

 

 

筋トレは、元より好きなのでいつも通り毎日行っている。間食もやめた。あとは、食べる量である。朝は、食べたり食べなかったり、昼は、お味噌汁をポットに入れってもらったものと、おにぎり二つ、夜は炭水化物抜きご飯を続けている。

 

 

しかし、ダイエットをするとやはり体力は落ちるもの、近頃、私は風邪を引いてしまった。しかも、一週間近く寝込むという最悪のものだった。精神的にも落ちるし、体力もかなり落ちたような気もした。

 

 

 

体調を確かめるに、治った頃に近場の店をウロウロしてみた。寝込んでいた反動で衝動買いもしてしまった。しかし、人間そうやわには出来ていないみたいである。動き回る体力はあるし、でていなかった分、トータル的に衝動買いもなんとかなる金額でもあった、それに外に際にデニムを履こうと久々に一年間履けなかったデニムを試してみると、履けたのだ。風も捨てたものではない。

 

 

そうこうしながら、私は、体調との兼ね合いを見ながら、身体のバランスを見て年齢に相応しい体力作りを続けている。素敵な身体になるように。

五島列島での幼少時代 その2

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私の小さいころ私は、五島列島の自然の中で育った。五島列島の自然は私たちには、雄大で色々なものを与えてくれていた。

 

私たちは、大抵、4、5人の仲間で遊ぶようになっていた。ある日、小学校の裏山にあるダムの先へと進む道を皆んなで行ってみようという話が持ち上がっていた。

 

ダムの裏山の道は、かなり広く入り組んでおり、私たちにとってかなり興味を引かれる面白そうな道だった。

 

 

 

私たちは、休みの日に集まりいつもの自転車に乗り、その道を登り始めた。登り始めて、しばらくするとダムの形跡が見えてきた。一気にテンションが上がる。「ダムがあるぞー!!」私たちは、「わーっ」と走って一気にダムまでたどり着いて、近くの地域に水を供給しているダムに目をやった。緑の自然の中にダムがあり良い眺めである。

 

 

その後、山の頂上までやっとの思いで到達する。山の頂上まで行くと、もう私たちの他には気配がなかった。コンクリートの建物が金網に守られて立っている。それは、まるで何かの要塞のように私たちには感じられた。金網をよじ登って入ってみる。しかし、鍵がかかっていて開かない。

 

もっと奥に進むと、全く見たこともない風景ばかりが続き、いつも見てる反対側の海が見えた。そこまで進むと少し怖さが出てきて私たちは引き帰した。

 

 

 

 

下の私の家のあたりまで戻り着くと、クラスの女子たちが遊びに来ており。川に誘って、ドンポという川魚釣りをして遊んだ。私たちの島での遊びは目の前にあるもの全てが遊びに直結していた。しかも、自然と戯れる形で。とても、楽しい島遊びであった。

 

島はいつも私たちに色々なものを見せてくれ、教えてくれ、育んでくれていた。

父の車に乗って

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私は、小さい頃「後ろに乗りなさい」と言う母の声を後ろに「お父さん、お父さんの運転を見たいから助手席に乗っけて」と父に言っては、父の助手席をいつもゲットしていた。

 

父の安心できる車の運転に乗りながら、街の看板や、標識の文字を読むのが好きだった。そして、父に最近覚えたてのローマ字の看板の文字を読み、確認してもらうのが、その当時のお気に入りだった。

 

 

 

父の言う通り、アリババの本の話をローマ字で書き移す作業を毎日していたことで、私はローマ字を読めるようになっていたのだ。

 

私の父は、昔はトラックの運転手をしていたらしい。なので、車の運転はお手の物である。どんな乗り物より快適で、ブレーキを踏んで停まるまでに、いつ停まったか分からないくらいだったのを覚えている。

 

 

 

それから、時は経ち、父の車に乗ることも少なくなってきた。大人になり一緒に外に出ることもなくなったからである。

 

親は、前まではファミリーカーに乗っていたが、そのファミリーカーを父があまり運転したのを見た記憶がない。主に母が、ジイちゃんやバアちゃんを乗せてどこかに行ったり、私をたまに乗せたりした。

 

 

父は、その頃、スポーツカーを一台所有していて、退職後の娯楽だと言っては乗り回していた。そして、まだ母も乗ったことのないスポーツカーに父は私を乗せるから、ドライブに行こうと誘った。

 

乗ると、普通の車と違って見る世界が違う、車高がまず低いのだ。そして、キーを回すとドルルルルルンと低い音が、キュキュキュキュッとチョロキュウのような動きで車が動きだす。物凄い、回転と音と圧力である。

 

 

父はというと、黒のドライビンググローブをはめ、サングラスをかけ、もうその気だ。

キュキュキュキュぎゃぎゃぎゃブオーーーンもの凄い爆音とともに、車は走り続ける。

大人になって乗ってるので、手加減はない。降りた後にはクタクタに疲れるくらいの運転だ。怖いくらいの速度ではあったが、幼い頃からの安心感で父の運転だしというのはどこかにあった。

 

 

 

大人になっても、父の車に乗り、父と共に水平線を走る。あのスポーツカーでの運転が父との最後のドライブであった。今は、私がチビたちを安全運転の中、色々な街へと連れて運転をする。チビたちは、パパの安全な心地よいブレーキの車に乗って。