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向こう水博士

向こう水博士は、世の中のあらゆるテーマに対し率直に素直で真摯な意見を考える、いわば人生を好転させる福の神のような存在です。宜しくお願いします。

駅ビルの高級服屋のアパレルの仕事をしてみて感じた過去 パート3

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研修最後の3日目は新人3人とも出勤でその後、長崎に帰るという日程だった。私たちは先輩につかれながら、最終チェックを受け余念なく最後の研修を受ける。その後、一旦は無事に長崎へと各々帰って行ったのだ。

 

アミュプラザ長崎がオープンする前に私たちは、オープン前のアミュプラザに集まり、ディスプレイの仕事が待っていた。

 

 

女性部門の人たちともう一人私たち男性部門に入るアパレルの先輩女性たちと合流して、たくさん届いて山のようにある段ボールを開封しながら店長に聞いてディスプレイしていく。

 

 

三日間くらいかかってその作業を終え、東京から専務が様子を見るくるという。その日の午前中に専務はサラッとやってきて店内を見終わった後に、一言。「お前らは皆んな左利きか?」というディスプレイのハンガーのかけ方が全部逆向きだったのだ…1時間かけてまた全てかけ直す。クタクタである。

 

その日は、また専務とのお疲れ様会があったのだが、なかなか私は和めずに面白くなかった。終電も、最終バスが近くなっても会は終わろうとしない。

 

「す、すいません。帰りがないのでそろそろお暇してもよろしいですか?」と私が言うと酔っぱらった専務が「俺が、わざわざ東京から視察に来てるのにお前は帰るというのか」と言う。考えあぐねていると、男性部門にアミューから合流したお姉さんが、「お先に失礼します」と言って帰りなさいと教えてくれ何とか難を逃れた。

 

 

それから、長崎アミューがオープンすると朝は6時から夜は8時ひどい時には残業でオープン当時は朝の6時から夜中の2時までというときもありの激務だった。

 

服の色合わせのための、布の色を遅くまで作ったり、ディスプレイを入れ替え、新しく来るお客様のDM作り、自分の顧客名簿管理、発注に、受注、換金に、レジ閉めすることは山のようにあり毎日は過ぎた。

 

私は、販売を始めて何が良かったのか、19万の子羊のコートを2着売ることができた。月の売り上げも私がそこまで売りあげるとは期待してないくらいだったらしい。

 

 

ある日、男性部門の先輩お姉さんが仕事終わりに「ラーメン一緒に食べに行かない?」と言ってきてくれ、街までラーメンを食べに出たことがあった。特に何を話すでもなく

ラーメンをすすり私たちは過ごし、「今日は何かだったのですか?」と尋ねてみたところ、お姉さんはラーメンを食べたかったのとだけ言って私と別れた。

 

 

たまには、そんなこともあり、顔合わせ会と称して開かれたパーティでは、私たち新人は自慢の歌を披露して先輩たちを唸らせた。

 

 

そんなこんなして、毎日の激務に追われながらも、毎日を過ごしているとある日、男性部門のチョビヒゲ店長が疲労で倒れバックで休んでいた。皆がイライラを抱え、大変な頃に私とチョビヒゲ店長は私が生やしていたヒゲの件でぶつかった。

 

以前も、無造作ヘアーや髪を立たせるやり方に、坊主頭のチョビヒゲ店長は、「何だその寝癖頭はや、お前はヤンキーか」などと言いケチをつけてきてからの今回である。私もさすがにフラストレーションが溜まっていた。「お前上唇のヒゲは剃って来いと言っただろう、言うこと聞けないなら辞めちまえ」私「わかりました」と言って背を向け店を出る。

 

普通で言えば上司が部下に「やめてしまえ」などという言葉は言わないものであろうし、言ったとしても本気で言ったものではないのは分かっている。ましてや、それをまともに受けるのもそれはそれで、「以後気をつけますや」「前向きに頑張ります」という答えが妥当なのだろうが、若い私にはそのような頭はなく。

 

その後、何度も鳴り続ける携帯の電話も無視してそのまま放り投げて辞めてしまった。

 

若い頃の失敗である。今でこそ、その会社ほどの給料を貰えた会社はなかっただろう。しかし、頭の中には、高い買い物を知りもしないお客様に売りつけるということ自体が若い私には合わなかったのかもしれない。

 

若い時には、勢いや、色々なことが起こるものである。しかし、大人になり解釈や、見解の仕方が変わると、その対応やどういうことなのかが飲み込みやすくはなるだろう。

若い素直な時よりはである。世の中難しいなあと思うことであった。