向こう水博士

向こう水博士は、世の中のあらゆるテーマに対し率直に素直で真摯な意見を考える、いわば人生を好転させる福の神のような存在です。宜しくお願いします。

今、この秋を肌で感じ、秋を感じる思いとは

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今年は、つい先日まで暑く汗ばむ気候が続いていたかと思いきや、急に朝が冷え、昼はまだ暖かいが少しカラッとした気候に変わってきた。

 

秋の紅葉はまだかまだか、と待ち望んでいたら、つい最近公園に散歩がてら訪れたところ、葉が綺麗に紅葉していて、それは見事なものだった。

 

 

 

今では、朝から昼までも少し肌寒いが、まだ、暖房やコタツに入るまではない。しかし、夜が寒く寝冷えしてしまいそうになったりと、難しいこの秋である。

 

 

今回の秋、変わりやすい天気というのもあって、体調を崩す人が多いらしい。私の周りでも、結構いるみたいだし、知り合いや婚約者の周りにも多いらしいのである。

 

私は、この秋に楽しみにしている事がある。というのは、ここから二時間くらいかけて行ったところにある。垂水の千本イチョウというスポットだ。

 

例年、この時期になると紅葉したイチョウが見事な色に染まり、土の上をイチョウの絨毯で敷き詰めて幻想的な世界観を見せてくれる。

 

 

去年は、不作だったらしく、せっかく二時間かけて訪れたにもかかわらず、イチョウはまだ色付いておらず、イチョウの絨毯もまばらだった。

 

 

今年は、どのような秋模様を見せてくれるのであろうか、あと数日が楽しみである。

 

秋の紅葉、ひとつの楽しみだ。この秋も紅葉を見て帰りに美味しいサンマでも買ってウチでビールと共に食したいものである。

 

さてさて、この良い季節、秋をどう堪能しようか。

ここ鹿児島に来てはや13年、振り返って感じる鹿児島

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鹿児島に来て、はや13年が過ぎようとしている。鹿児島は父、母の生まれ育った土地だ。私は、神奈川県に生まれ、長崎に育ったのだが私が25歳の時、働いていた介護職が、まだパートだったのと、父の身体のこともあり、一緒に鹿児島に越してきた。

 

始めの頃、私には鹿児島に誰も知り合いがいなく、寂しい思いをしたが、なんとかふっ切り、前の仕事などで稼いでいたお金で鹿児島を知るために街に繰り出したりした。

 

長崎に比べると鹿児島は天文館と言われる街が大きく、道を歩いている女の子たちもオシャレで綺麗に感じた。

 

 

 

私は、鹿児島で有名なラーメン屋さんでのバイトの仕事を見つけ、引っ越してきて程なく縁があった、化粧品店の店長の彼女ができたりしてすぐに馴染み始めてきた。

 

しばらくして、体調を崩した私はこれから何度も入退院を繰り返したりするのだが、その度にこの鹿児島という大地に抱かれて元気になって、幾度となく蘇った。

 

ある時は、市内であったり、ある時は鹿屋の地であったり、志布志という土地であったり、私は、色々な鹿児島を見てきた。

 

 

 

それを、経て思うこと、鹿児島の人は熱い。人情味に溢れている。そして、いい意味で田舎者である。いい意味で田舎者と言うのは弊害かもしれないが、皆んな暖かいし、人を大切にし、大地と共に生きているという意味だ。

 

鹿児島市内にいても近所のおじさん達は、今や家族連れとなった私たちのことを気にしてくれ、取れた農作物のおすそ分けををしてくれたり、田舎で暮らしていた時は、田舎で助け合いで先輩友達が親のように可愛がってくれたりと人間がいいのだ。

 

長崎から来た時は、一見取っつきにくく、威張った感じのする鹿児島男児に嫌な気もしていたが、今はその不器用さに愛着すら湧く。女性は男性を上手く立てて、外に送り出してくれる鹿児島おごじょに関心すらする。

 

 

そして、鹿児島といえば桜島を始めとする大自然だ。私はオーストラリアに海外研修に行った経験があるのだが、鹿児島を海外に例えるならそれだろう。

 

鹿児島市内、桜島、霧島、指宿、坂本、奄美、与論、様々な観光スポットがあり、鹿児島観光をするだけでも楽しめる。

 

 

私もここ最近、近場の姶良や加治木に始まり、様々なところに観光しているが、道中や

行った先が自然と一体化していて楽しめるのがいいところである。

 

この地、鹿児島に来て特産の焼酎を楽しみ始めたのも言うまでもない。

 

ここ鹿児島に来てはや13年、仕事が休みの日などには鹿児島の色々な土地を旅して回るのが今の私の楽しみである。もっともっと鹿児島を旅して回り、鹿児島をもっとよく知りたい。

 

今や鹿児島の虜である。

 

 

最近の身体事情

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私の体重は、30代の前半はかなり良い数値だったのだが、30代の後半になってきてからというもの、私の体型と共に一気に崩れ始めた。一つは、仕事でそこまで動かなくなったからと、お酒を習慣的に飲み、美味しいおつまみを食べ始めたことである。

 

 

この二つは、私にはなかなか大きかった、おつまみをやめて飲むだけで何キロかは体重は減ったが、やはり体重は口から入れたものであるのは間違いない。そして、ストレッチや筋トレ、とにかく動く事を心がけた。私の筋肉量は今、58パーセントある。人と比べた事がないので良くわからないが、多分少し多い方かと思っている。

 

ということはである。基礎代謝がいいということになるので、食べる量さえ気を配れば、普通に減っていくという計算になる。

 

 

筋トレは、元より好きなのでいつも通り毎日行っている。間食もやめた。あとは、食べる量である。朝は、食べたり食べなかったり、昼は、お味噌汁をポットに入れってもらったものと、おにぎり二つ、夜は炭水化物抜きご飯を続けている。

 

 

しかし、ダイエットをするとやはり体力は落ちるもの、近頃、私は風邪を引いてしまった。しかも、一週間近く寝込むという最悪のものだった。精神的にも落ちるし、体力もかなり落ちたような気もした。

 

 

 

体調を確かめるに、治った頃に近場の店をウロウロしてみた。寝込んでいた反動で衝動買いもしてしまった。しかし、人間そうやわには出来ていないみたいである。動き回る体力はあるし、でていなかった分、トータル的に衝動買いもなんとかなる金額でもあった、それに外に際にデニムを履こうと久々に一年間履けなかったデニムを試してみると、履けたのだ。風も捨てたものではない。

 

 

そうこうしながら、私は、体調との兼ね合いを見ながら、身体のバランスを見て年齢に相応しい体力作りを続けている。素敵な身体になるように。

五島列島での幼少時代 その2

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私の小さいころ私は、五島列島の自然の中で育った。五島列島の自然は私たちには、雄大で色々なものを与えてくれていた。

 

私たちは、大抵、4、5人の仲間で遊ぶようになっていた。ある日、小学校の裏山にあるダムの先へと進む道を皆んなで行ってみようという話が持ち上がっていた。

 

ダムの裏山の道は、かなり広く入り組んでおり、私たちにとってかなり興味を引かれる面白そうな道だった。

 

 

 

私たちは、休みの日に集まりいつもの自転車に乗り、その道を登り始めた。登り始めて、しばらくするとダムの形跡が見えてきた。一気にテンションが上がる。「ダムがあるぞー!!」私たちは、「わーっ」と走って一気にダムまでたどり着いて、近くの地域に水を供給しているダムに目をやった。緑の自然の中にダムがあり良い眺めである。

 

 

その後、山の頂上までやっとの思いで到達する。山の頂上まで行くと、もう私たちの他には気配がなかった。コンクリートの建物が金網に守られて立っている。それは、まるで何かの要塞のように私たちには感じられた。金網をよじ登って入ってみる。しかし、鍵がかかっていて開かない。

 

もっと奥に進むと、全く見たこともない風景ばかりが続き、いつも見てる反対側の海が見えた。そこまで進むと少し怖さが出てきて私たちは引き帰した。

 

 

 

 

下の私の家のあたりまで戻り着くと、クラスの女子たちが遊びに来ており。川に誘って、ドンポという川魚釣りをして遊んだ。私たちの島での遊びは目の前にあるもの全てが遊びに直結していた。しかも、自然と戯れる形で。とても、楽しい島遊びであった。

 

島はいつも私たちに色々なものを見せてくれ、教えてくれ、育んでくれていた。

父の車に乗って

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私は、小さい頃「後ろに乗りなさい」と言う母の声を後ろに「お父さん、お父さんの運転を見たいから助手席に乗っけて」と父に言っては、父の助手席をいつもゲットしていた。

 

父の安心できる車の運転に乗りながら、街の看板や、標識の文字を読むのが好きだった。そして、父に最近覚えたてのローマ字の看板の文字を読み、確認してもらうのが、その当時のお気に入りだった。

 

 

 

父の言う通り、アリババの本の話をローマ字で書き移す作業を毎日していたことで、私はローマ字を読めるようになっていたのだ。

 

私の父は、昔はトラックの運転手をしていたらしい。なので、車の運転はお手の物である。どんな乗り物より快適で、ブレーキを踏んで停まるまでに、いつ停まったか分からないくらいだったのを覚えている。

 

 

 

それから、時は経ち、父の車に乗ることも少なくなってきた。大人になり一緒に外に出ることもなくなったからである。

 

親は、前まではファミリーカーに乗っていたが、そのファミリーカーを父があまり運転したのを見た記憶がない。主に母が、ジイちゃんやバアちゃんを乗せてどこかに行ったり、私をたまに乗せたりした。

 

 

父は、その頃、スポーツカーを一台所有していて、退職後の娯楽だと言っては乗り回していた。そして、まだ母も乗ったことのないスポーツカーに父は私を乗せるから、ドライブに行こうと誘った。

 

乗ると、普通の車と違って見る世界が違う、車高がまず低いのだ。そして、キーを回すとドルルルルルンと低い音が、キュキュキュキュッとチョロキュウのような動きで車が動きだす。物凄い、回転と音と圧力である。

 

 

父はというと、黒のドライビンググローブをはめ、サングラスをかけ、もうその気だ。

キュキュキュキュぎゃぎゃぎゃブオーーーンもの凄い爆音とともに、車は走り続ける。

大人になって乗ってるので、手加減はない。降りた後にはクタクタに疲れるくらいの運転だ。怖いくらいの速度ではあったが、幼い頃からの安心感で父の運転だしというのはどこかにあった。

 

 

 

大人になっても、父の車に乗り、父と共に水平線を走る。あのスポーツカーでの運転が父との最後のドライブであった。今は、私がチビたちを安全運転の中、色々な街へと連れて運転をする。チビたちは、パパの安全な心地よいブレーキの車に乗って。

PPAP

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今、巷で世界を騒がせているPPAP、皆さんご存知でしょうか。彼のYoutube爆発的ヒットはどこにあるのだろうか。最初はジャスティン・ビーバーが面白い日本人の動画があるという投稿からがことの始まりみたいだ。

 

今は世界で一番短い曲の中で、一番ヒットしているということでギネスの記録を更新した。なんと素晴らしいことだろう。

 

ピコ太郎の楽曲を提供している本人は、ミュージックステーションの名司会者タモリさんのボキャブラ時代の知り合いであるらしい。これも面白い話である10数年ぶりかの話だそうだ。

 

 

 

なぜ、ここまでPPAPがヒットしたのだろう。少し研究してみよう。

 

・音韻論音声学的視点

 まず、PPAPは、音韻的には文句なく、心地よい韻を持っている。

「P」という口唇破裂音の連続は、ヨーロッパ諸語であると特に顕著に、子どももおとなも大好きな響きだ。「ピーターパン」や「パイドパイパー」などのキャラは、Pの連続を意図的につくることで、響きをよくしている。

Peter Piper picked a peck of pickled peppers.

という有名なマザーグースの早口言葉があるけれど、この早口言葉は「言いにくい」のではなく「口にして心地よい」という意味の早口言葉の代表格。

 呪文などにも、たとえば「アブラカタブラ」など、口唇破裂音「B」がいいリズムで繰り返されるものが多い。

 これ以上例を並べなくても、「pen pinapple apple pen」が迷うことなく「復唱して楽しい音だ」と世界で幅広く受け入れられることについては、体感的に反論は少ないのではないかと思う。「つい口に出したくなるもの」が流行るのは、特殊な事例ではなく、むしろ普遍的な現象だろう。

 

 

・言語教育的視点

 実は世界の大多数をしめる非英語圏の人間にとって「英語の勉強の基礎」は誰でも通過しているものだ。今も、たぶん世界中の教室で、英語の苦手な子どもたち(や、あとからの支援で教育を受ける大人たち)が「This is a pen. I have a pen.」「This is an apple. I have an apple.」みたいなものを暗唱している。

 その後、英語が得意になった人も苦手のままの人もいるけれど、みんな、「あのフレーズ、その後の人生でほとんどつかわなかったな、意味あったんかな」と思ってたりする。いや、もちろん文法を学ぶだめに仕方ない過程というのはわかっているけれど。

 そして、ピコ太郎さんは見た感じ典型的に「英語が苦手なアジアの変なおじさん」だけれど、それでも昔習ったであろう(あるいは習いたての)自分の知っている数少ない英語のフレーズで、強い気持ちで世界に対峙している。きらきらの安っぽい服で「英語ができるシンガー」という自分に酔いつつ、Youtubeでスター気取りだ(というよくできたキャラだ)。

「英語が苦手そう」なのをものともしない前向きなキャラクターは、不快感が薄い。単に下手な英語で歌うだけの人だったら、おそらく差別的に見えたり、非英語圏の世界の人を馬鹿にした表現ととらえられる可能性も高かったけれど、力強いポジティブさと当事者性、そしてアジアによくいそうなおっさん、というリアリティでうまくクリアしている。もちろん言い過ぎだけれど、英語が苦手な人にとってはヒロイックでさえある。(これは、いくつかの工夫と、それを超える数の偶然が重なった結果だとは思う)

 また「This is a apple. I have a apple.」や「This is pineapple. I have pineapple.」という、随所にある冠詞の文法的逸脱も「初学者あるある」「英語しゃべれない国からきた人の英語あるある」だったりするので、ピコ太郎さんのキャラクターが世界中に伝わる表現になっている。

 

 

・文法的視点

 不思議の国のアリスなどがよく知られていてわかりやすいけれど、文学や論理学、数学などの教育的読み物にはよく「われわれの日常的な論理から逸脱しているナンセンス世界の住人」というキャラが出てくる。そういう人物は、われわれの常識にかたまった日常を見直して「なぜこんな常識があるのか」と考え直させることで知的刺激を与える、大きな意味がある。

 実は、ピコ太郎さんもそういう世界の住人である。

 自然言語の文法というのは「見たまま」を表現した順番にはならない。僕たちはこんなことを日頃、当たり前すぎて考えもしない。

 たとえばここにウナギイヌがいたとする。ウナギイヌは頭を東に向けている。これが、歩いてくるっと回って、西向きになったからといって「あ、イヌウナギだ!」とはならない。よく考えると、不思議なことじゃない?

 この手の人間の音声言語の持つ不思議さを、言葉遊びやなぞなぞにつかう例は、世界中にある。

 ペンとアップルを足すと(「Ahn!」)「アップルペン」ここまではいい。

 ペンとパイナップルを足すと(「Ahn!」)「パイナップルペン」これもよしとしよう。

 ただ、これを両手で持ってくっつけた(「Ahn!」)ところで、左から順に読んで「ペン・パイナップル・アップル・ペン」にはならない。文法的習慣でいうならこの物体は「アップル・パイナップル・ペン」であるはずだ。少なくとも僕の通常の言語感覚では。なぜだかはわからないけれど、それが人間のつかう言葉のルールなのだ。(こういう不思議さに敏感に気づき、謎解きにいどむのが、言語学という学問の魅力である)

 ピコ太郎さんは、そのルールを飛び越えた。「ただの英語が苦手な人」というものではない、ふしぎの国のアリス的ナンセンス世界の住人であることが、最後に明らかになる動画なのだ。

 その、実は知的な刺激のある洒脱なナンセンスさが、世界に伝わっていると思う。「Ahn!」というセクシーな呪文とともに。

・結び

 「これだからおもしろい」という説明は、本来はただの「野暮」だ。
 なぜ流行ったのかといえば、もちろん「努力と才能と経験に裏打ちされた運」という、例の、作り手すべてがそれに飢えているやつだ。僕だって作り手側の人間である以上、分析なんてひけらかしたところでこれまでの無能をたださらすだけだ。
 でも、一方でPPAPに関しては、日本の文化の外で流行しているという現実があって、「小島よしおやら永野やら、キャラ芸人やギャグは日本にはたくさんあるのに、なぜPPAPだけこんなに世界で受けてるの?」という違いに気づかない人、違いを見ようともしない人もいるだろう。地球のスケールで届く普遍性について、という少々の大風呂敷を広げてよければ、「これだからおもしろい」という醜い論にも多少の意義はあるんじゃないだろうか。なにせこれは(真偽は不明だが)、あの宮台先生の投げたボールなのだしね。

 

というとこである。

 

 

 

PPAP、今世界で話題のYoutubeモンスター今後一層の広まりと、これからにも期待をしながら彼を見続けたいものである。

五島列島での幼少時代 その1

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私は、小学二年生の夏休みに神奈川県から、長崎県五島列島に引越しをした。

私の記憶が確かなら、親は、神奈川から長崎の五島列島までの道のりを車で二人交代で運転したはずだ。

 

一度、大阪で親戚のおばちゃん家に泊まり、五島列島まで二日がかりで行った記憶がある。

  

五島列島にフェリーで着いてすぐ、私は引越し先に着いたのだが、いかんせん子供は邪魔である。早速、近くの家に預けられ、そこの子供たちと仲良くなり、ゲームをしたり、走り回ったりしていた。

 

 

その後、島を回ってみて、子供ながらに気付いた事だが、島には、モールや大きなデパート、電車のホームなどはなく、しかし、そこには子供が育つには十分な大地と山に海に川などの自然があった。

 

 

私は、夏休みの宿題、やってなかった夏休みの友を引越しで見つからなかったことにし、先生に見つかったら持ってきてねと言われ、見つかるはずなどないと思いながら、教室に入りクラスの皆んなに紹介された。

 

 

五島列島の友達の皆んなはとてもフレンドリーで、神奈川から来た私がとても珍しいようだった。帰る頃には、なかなかいっぱいの友達ができて、初日からとても楽しい小学校ライフを送った。

 

 

 

その後、3年の月日が経ち、私も五島列島での生活に慣れ、今では親友とも言える悪童友達もいた。ある日の事、日曜日に朝寝しているとその友達の1人から電話がかかってきて滝を見に行かないか、カップラーメンは持ってるかと連絡が入った。滝を見に行きたい、カップラーメンは家にある。早速、自転車に跨がり彼らの後についていく。

 

 

滝までは、およそ3キロくらいの道のりである。午前中に家を出て険しい坂の道を自転車を降りて歩いたり、乗ったりして進んでいった。むき出しの山がそこにはあった。私たち5人組は声を掛け合いながら、ひふみよ滝への道のりを一時間ほどかけて登った。

 

登りきったところで、はらが減ったから飯を食おうという事になった。もちろんカップラーメンである。お湯は水筒に持ってきてある。さあ、食べよう。ラーメンも出来上がった頃に私は一つのことに気づいた。

 

箸がない…するとそれを見ていた我らの悪童の中のボス的な友達が近づいてきて、「なんや、箸持ってこんかったとか」と言って自分が使おうとしていた、片方の割り箸を半分にして、私に渡した。そして、自分もその半分を半分に割り食べ始めたのだ。

 

 

面白い機転と優しさに、こいつこんなとこあるんやなあなどと思いながら、五島列島の島の綺麗さを満喫しつつ、私たちの五島列島の生活は続く。

 

 

 

to be continued…